釈迦に説法

幸せについて考えてみる。

留学生活その4 日本人として。

 とある授業中に宗教の話になり、キリスト教であるアメリカ人学生がアメリカの事を偉そうに自慢して、みかねた中国人の先生が、「戦争ばっかりしてるじゃない。」とたしなめた事をきっかけに、イスラム教徒が反発し、ちょっとめんどくさい雰囲気になった時に、イスラム教徒が「日本は仏教でしょ?」と聞いて来たので、「まぁ基本的にはそうですね。」と軽く答えたら、アメリカ人の学生が、「日本はトヨタパナソニックだけだろ?」と言った。僕以外の日本人が苦笑いをする中、僕は瞬発的に「ちょっと待て。日本をなめてんのか?」と言ってしまっていた。「猿まねばっかり。」と言い返されたので、「誰も猿に勝てねえじゃねえか。」と言い返した。クラスは凍り付いたように静まり返り、やばい雰囲気になった所で、違和感に気付いた。「あれ?俺日本の事嫌いだったはずなのに、何で腹立ててるんだろう?」その時にすぐ、エルビスの顔が浮かんだ。”故郷や自分が嫌いなんておかしいよ。”・・・エルビス、俺は中国に来て、君に出会って日本への愛を取り戻せたかもしれない。アメリカ人に腹が立つよ。なにがキリストだよ。さあこうなったら後には引けないぞ。「金儲けなんかの為に、罪のない人巻き込んで戦争してんじゃねえよ。」アメリカ人に言い放った時、「はい、そこまで。」と先生に言われた。僕は頭の中は冷静だった。アメリカ人は両手を挙げて特有の”オーマイガッ”のポーズをしていた。僕はそれを見て笑ってしまった。その授業終わりに、イスラム教徒、アジアの学生なんかが僕の所に来て、「言うねぇ。」みたいな事を言って来た。「恥ずかしい事してごめんね。彼の事を嫌いなわけじゃないから。」と言うと、半年前からこのクラスにいたインドネシアの子が、「ちょっと前にここに居た日本人達はさ、授業にも出ずに部屋でビールばっかり飲んでた。その子達に嫌がらせされてたのがあのアメリカ人の子なのよ。」と言われた。「だからあなたに言い返されてびっくりしたんじゃないかな?前の子達はよくトヨタパナソニックが世界の中心だみたいなおかしな事言っていたから。バカにされてるとも知らないで偉そうにしてた。ちっとも中国語しゃべれないのに。」僕は黙り込んでしまった。その日本人達に無性に腹が立った。その時ハッとした。そして気が付いた。日本から出た時、僕は日本代表選手と同じものを背負っているんだと。初めて日本人と接する人は僕を見て日本の印象を決めてしまうのだと。責任があるのだ。そう気付いてすぐ、僕はアメリカ人の所に行き、「以前の日本人がすまない事をした。僕も失礼な事言って悪かった。これからきちんとするから、僕と日本人を許してほしい。」と謝った。「サムライだね。」と笑ってくれた。英語圏の学生たちが固まっていたが、みんなびっくりしたようだった。握手をし、席に戻ると、ウズベキスタンの二人が、今日から俺達は友達だよな?と言って来た。アメリカ人に文句を言ったのが余程痛快で気に入ったらしい。日本人のクラスメイトは申し訳なさそうに近くにいた。自分の国をバカにされ、何も言い返せない典型的な子達だなと思った。僕も以前はそうだった。これからは気をつけようと、その二人に、「俺達はいつでも日本人代表だから、恥ずかしい事はしない様に気を付けようぜ。」と諭した。「さっきの俺の態度はダメな例ね。」と言って笑わせていると、「インドネシアが今あるのは、戦時中に戦ってくれた日本人のおかげ。フィリピンでもそうよ。」と言って来た子がいた。僕はおじいさんたちは悪い事をしたという教育を受けた。戦争して周りの国に迷惑をかけたと確かに習ってきた。どうやらこの辺も怪しまなくてはならない様だ。僕は既に日本での自分の愚かさに気付いていたため、僕よりはるかに良い教育を受けて心も広い華僑たちの言葉を、素直に受け入れられて、色々勉強させてもらおうと思った。もしかすると僕は、自分や国や、おじいさんたちの事を好きになれるかもしれない。僕は、間違っていたのかもしれないと思った時、なぜか心は晴れやかだった。僕は生まれ変われるかもしれない。新しくできた外国人の友達と、一緒に歩いて帰る道の途中で、いつも昔の事を語りがたらず、正月には決まってお年玉をくれるおじいちゃんやおばあちゃんの優しい笑顔が、北京の空に見えた気がした。

 次の日に日本人が絶対に受けたがらない、日本人が嫌いで文句ばかり言うと有名な中国人の先生がいると聞いて、誰よりも早くその教室で僕は待っていた。確かに日本人は僕だけだった。でも僕は真実を知りたかった。その先生は入って来るなり、「君は日本人か?」と聞いて来たので、「はい。広島から来ました。」とあいさつすると、「悪魔の子め。お前たちはミルクの様な奴ばかりだ。」と言われた。ワクワクした。そうそう、こういうのを待っていた。(笑)この先生の授業を聞いてみよう。僕は、「何故ミルクなのですか?」と聞いた。すると先生は、「そもそもよくこの授業に来たな。他には誰も受けたがらないのに。」と言われたので、「僕は自分の国が嫌いで、ここに来ました。確かに悪魔の様な奴です。」と言うと、「ミルクとは甘ったるいという意味だ。ちょっと悪口を言われると、言い返しもせず、授業すら受けに来ない。」と言われた。なるほど、確かに甘ったるい。(笑)先輩たちはどうしようもねえなと苦笑いしていると、先生は急に、「雨よ来い、風よ来い。そんなものは、恐るるに足らぬ。」と日本語で言った。「昔、戦争をしていた頃の日本人は気概があり、敵とはいえ信用できる人達だった。なのにお前達の世代は何だ。これだけ豊かにしてもらったくせに、先祖の悪口を言われ、黙って笑っているだけ。さもその通りです。日本人はバカでしたと言わんばかりに。」と言われた。僕はもう何枚目か解らないウロコが目からはがれるのを感じて、同時に嬉しくなった。ああやっぱりか。僕の先祖は偉大だったんだな。今の日本人は間違っているんだと確信した。「私はあの頃の日本人が懐かしい。何度同じ国に生まれていればと思った事か。」と遠くを見つめておっしゃっていた。「僕は先生の授業を受けて、日本人で良かったと思い始めています。」と素直に言った。「久しぶりに日本人を見た気がする。」と言われて、自分を誇らしく感じた。先祖をヒーローの様に思い始めていた。

 僕の国の教育は間違っている。でもそれを責めるのは止そう。大切なのは、自分が真実を見付ける事だ。この先生は、日本人が好きで、今の若者を見て歯がゆいのだ。金があるからと偉そうにし、まともに授業も受けずに遊んでいる日本人が嫌いなのだ。僕はこれからこの大学での日本代表。完全に生まれ変わった僕は、デビルマンの心境になっていた。今までは自分の国や先祖を知らずにバカにしていた悪魔の子だったが、もう大丈夫。これからは僕が真実を語って行く。ミルクも卒業だ。真実は今、目の前にある。半年後の僕のこの先生のクラスでの成績は、ダントツでSだった事を付け加えておく。外国に出れば各々がみな日本代表。旅の恥はかき捨てではない。心に刻み付けておいて欲しい。自分だけの問題では、許されないのだ。僕はそれからいつも堂々と答える様にしている。僕は、日本人である、と。ではまた。

 

   ♪ デビルマンのうた   /  十田敬三

 

あれは誰だ 誰だ 誰だ あれはデビル デビルマン デビルマン

裏切り者の名を受けて すべてを捨てて闘う男

デビルアローは超音波 デビルイヤーは地獄耳 

デビルウイングは空を飛び デビルビームは熱光線 

悪魔の力 身につけた 正義のヒーロー デビルマン デビルマン

 

初めて知った人の愛 その優しさに目覚めた男

デビルチョップはパンチ力 デビルキックは破壊力

デビルアイなら透視力 デビルカッターは岩砕く

悪魔の力 身につけた 正義のヒーロー デビルマン デビルマン 

留学生活その3 クラスメイトは11か国。

 エルビスとの出会いにより、しっかりとした心構えで留学生活がスタートした。初めてクラスメイトと顔合わせの日、教室に入ると3人ぐらいが英語で話していた。入って来た僕の方をちらっとだけ見て、挨拶もせずに話し続けていた。僕は一番後ろの席に座り、次に入って来た2メートル近い二人組に挨拶した。見るからに英語圏ではない顔をしていたからだ。(笑)何故だろう?英語には抵抗があった。6年も勉強して喋れない事へのコンプレックスかもしれない。その後続々とクラスメイトが入って来たが、僕は誰とも喋らずどの位の会話が理解できるか試し聞きしていた。僕の隣にはイギリス人のニコラと言う女性が座っていた。4か国語が話せると言っていた。弁護士の資格も持っていると言っていたので、とんでもねえ所に来たなと思った。場違い感が半端じゃ無かった。(笑)日本の高校のクラスで一番勉強できたって何?(笑)クラスには全部で16人。途中入れ替えもあったから、人は多少変わったが、仲良し組は卒業まで同じクラスだった。班長はフィリピンのシェラ。僕の一つ上の24歳の強気な姉御。男は僕が23歳、カナダのカーターが25歳、(帰国して市議会議員になるとか言っていたイケメンの見た目はアジア人華僑)アメリカ人華僑のユーが26歳、ウズベキスタン人2メートルコンビ、ジャミシ、ジャスワが当時19歳。スロベニアのマルコが24歳。途中で退学した大使館のロシア大使の息子のマックスが20歳。日本人の渡辺君が19歳(親父がヤクザで、兄が弁護士という福岡人)。女子は後、日本人の石倉さんが20歳、前出のニコラが30歳。、スイスの航空会社の社長令嬢ドリス、オランダのミランダともう一人(名前が思い出せないが超美人)。カナダの同級生のジェニファー、パキスタンのおばちゃんもいた。半年後に何人かは入れ替わるのだが(僕を含めた何人かは飛び級して3年生になった)、このメンバープラス担任の李先生とでいきなり遠足で観光に行った。万里の長城や北京十三陵や何か有名な山に登ったりした。いきなりの異文化交流である。ハード過ぎるだろ。11か国は多すぎるって。(笑)大学全部では1500人位の留学生がいて、おそらく世界中の国の人間が一人はいただろうと思われる。誰も中国語がまともに話せないのに、不思議と仲良くはなれるもので、僕はこれから始まる未知との交流に胸を弾ませ、不安など消え去っていた。ここは好奇心が物を言う。恐れている人はなかなか交流が進まないが、人間が好きな人には楽しみしか待っていない。僕の性格からして、クラスの中心になるのにはそんなに時間がかからなかった。たくさんの事件や発見、出会いも別れも言い出せばきりがないので、心に残った出来事だけ書いていこうと思う。ちなみに半年後、僕が5人位の外国人を引き連れて校内を歩いていると、広島から一緒に乗った母の知り合いの娘さんが一人で地球の歩き方というガイドブックを読みながら歩いていたのを見たことがあった。本の中には交流はない。外国人の友達と中国語で冗談を言っていた自分と、好奇心だけでえらく差がつくものなんだなぁと実感していた。僕はその時すでに飛び級して3年生だった。せっかく外国に飛び出して来たのなら、自分の力でぶつかって行かないと、日本に居た時と何も変わらないと思う。北京の日本の居酒屋チェーンに行った時も、東京の学生が日本人同士でコンパしていたっけ。日本ですれば良いのに。僕はフランス人の女性と横でご飯食べてたけど、聞こえて来た彼らの会話はつまらなかったなぁ。(笑)大学の先輩にはテレビにも出てたゾマホンとかいたらしいけど、僕は日本人の先輩たちのおかげで、生まれて初めての差別を味わう事になるなんて、思いもしなかった。次はその話でも書こうかな。ではまた。

 

尾崎 豊。

 1992年4月25日、尾崎豊が亡くなったというニュースが流れた。自分の誕生日の翌日の事で、忘れられない日になった。若い頃、彼に夢中になった。”Edge of Street”というファンクラブにも入っていた。何度教室の自分の机に彼の歌の歌詞を書いたか数えきれない。思い切り影響を受けた。そんな時代だった?そうかもしれない。しかし彼の作品と、彼の存在が無ければ、僕の青春はとてもつまらないものになっていただろう。恐ろしく繊細な男。それが彼のイメージ。彼は蝶が怖かった。触ると粉々になりそうで触れなかったそうだ。とても彼らしいエピソードだと思う。今でも彼の曲のほとんどは歌詞を見ずに歌えるし、何歳になって聞いても美しく、違うイメージが浮かぶ。親や先生に嫌われた男。誰よりも素直であろうとして傷ついた男。超絶イケメンであり、切なさの似合う男。本当に生き急いでいた様に思う。30過ぎになったら、どんな歌を歌うのか、楽しみでもあったが、それは叶わない様な気もしていた。彼の歌をカラオケで歌うと、重いだの暗いだの言われたが、それは周りが若すぎて、大切な事に向き合うには早すぎるのだと解釈していた。僕は彼の歌の中に出て来る恋愛に憧れ、登場する弱い女性に憧れていた。現実は退屈に見えるほど、彼の世界は苦しく、美しかった。ロックンロールとバラードと。彼は唯一無二の世界を持つ、色あせない歌手だ。あの素晴らしい楽曲を全て自分で作詞作曲し、美しい声で歌った。彼と同じ時代を生きた事は本当に嬉しかった。彼の影響で変になったと大人達に言われても、子供は美しいものに惹かれていくものだ。今の子供達も、一度聞いてみるべきだとは思う。理解できなくても美しさは解ると思う。昭和生まれのおっさん達の何人かは、尾崎世代なのだ。彼に青春を捧げ、それを幸せに思っているのだ。水彩画の様なガラスに囲まれた世界で、風に吹かれて煙草を吸っている。それが似合う男だった。20代で書いた歌だというのが、本当に末恐ろしくもあり、長くは生きられなかったと思わされるほどの才能だ。歌は歌詞がありきで、美しいメロディーと重なって人の心に残り、時代を代表するものになる。今の時代にもあると良いが、どうなんだろう?自由と愛を歌った尾崎豊を僕は今でも愛しているし、これからも一人でカラオケで歌おうと思う。彼の世界は美しいが、寂しい。人に解ってもらおうとは思わない。自分だけが共感する真実、何も愛せず、なすすべなく失った青春。僕は寂しさを抱える若者だった。多くの友達に囲まれて笑っていても、本当の悲しさは誰にも言えず、寂しかった。人間は悲しい生き物だと知っていた。金ばかりが大きな顔をして、闊歩する世の中が苦しかった。そんな孤独を尾崎豊と過ごしていた。独りじゃない気がしていた。自分らしく生きてて良いのだと言ってもらえている気がした。世界は儚くも美しい。これからもずっと、そのままであります様に。ではまた。

 

  ♪ 遠い空  /  尾崎豊

 

世間知らずの俺だから 体を張って覚え込む 

バカを気にして生きるほど 世間は狭かないだろう

彼女の肩を抱き寄せて 約束と愛の重さを

遠くを見つめる二人は やがて静かに消えて行くのだろう

風に吹かれて 歩き続けて かすかな明日の光に 触れようとしている

風に吹かれて 歩き続けて 心を重ねた 遠い空

 

慣れない仕事を抱えて 言葉より心信じた

かばい合う様に 見つめても 人は先を急ぐだけ

裏切りを知ったその日は 人目も気にせずに泣いた

情熱を明日の糧に 不器用な心を抱きしめてた

風に吹かれて 歩き続けて 立ち尽くす人の合間を 失いそうな心を

風に吹かれて 歩き続けて 信じて見つめた 遠い空

 

風に吹かれて 歩き続けて 立ち尽くす人の合間を 失いそうな心を

風に吹かれて 歩き続けて 信じて見つめた 遠い空

留学生活その2 エルビスとの出会い。

 なんやかんやで大学に着いた。運転手は僕の渡した中国元を青いペンライトみたいなのを当てて偽札かどうか確認していた。後に解った事だが、この時少しぼったくられていたらしい。初めて中国に来た事がばれると、誰もが受ける洗礼である。ちなみに、帰国直前に受付で係員ともめていた日本人学生の手助けに行くと、彼は運転手から偽札を渡されており、これは受け取れないと言われていた。それで中国を嫌いになられても嫌なので、僕はあえてその偽札を本物と替えてあげて、記念に偽札をもらい、「ようこそ中国へ。」と彼を励ました事がある。良い思い出だ。僕が大学の受付に行き、手続きをしていると、今は一番寮費の高い二人部屋しか空いていないと言われ、大学の入り口にあるちょっと高そうな寮の言われた部屋に行った。恐る恐るドアを開けると、部屋には誰も居なかったが、片方の机には明らかに何者かによって使用されている跡があった。何語か見ても解らない文字が書かれた本を確認し、最悪英語で何とかなるかと荷物を開けて、持って来た水を飲んで、ベッドに横になった。疲れていたが、何とかここまで辿り着いた。安心の方が大きかった。時間は夜八時を過ぎていたが、相方さんは帰って来なかったので、これからの予定を確認していた。授業は確か三日後ぐらいからになっていて、とりあえず明日はご飯食べる場所を探そうと思った。大学の地図を見ていると、背の小さなカーリーヘアーの男が部屋に入って来た。「ニーハオ。」と言われて握手を交わし、韓国人かと聞かれたので、日本人だと答えた。彼はイタリア人でエルビスと名乗った。歳は30前。若い格好をしていたが、おっさんに見えなくもなかった。僕が留学生活の中で初めて出来た知り合いだ。向こうは何やら中国語らしき言葉で色々聞いてきたが、僕があまり解ってないのをみて、途中からお互いに片言の英語でコミュ二ケーションした。自分は半年ここに居て、相方がいてもいなくても寮費は同じなので、しばらく広い部屋で快適だった事、まだしばらくここにいるからよろしくと言ってくれた。その後漢字について聞かれ、今度授業で習うんだと言っていた。なかなか勉強熱心なのかもと思っていたら、遊び人っぽいお姉ちゃんが二人部屋に入って来た。僕があっけに取られていると、これからディスコに行くから一緒に来るかい?と聞かれた。行くわけないだろうと言う所だった。今日は休むよ、と言うと、じゃあ先に休んでてと言い残して出て行った。一人になってこれからちゃんと中国語勉強しないと、会話が大変だなと痛感していた。なんか相方は遊び人っぽいけど、まあそれは気にしなくて良いと言い聞かせていた。エルビスは日が変わって帰って来た。すっかり出来上がった雰囲気のお姉さんは、僕が寝ているベッドに腰かけて、エルビスともう1人部屋じゃなくなったねみたいな会話をしていた。こいつは日本人らしいという様な会話を、僕は寝たふりして聞いていた。やれやれ、人見知りの自分にはしんどいスタートだなと帰って行くお姉さんを気配で感じて寝た。次の日は朝から色々探索して、夜にエルビスと話した。自分は日本があまり好きではなく、外国に憧れて留学しに来た旨を告げると、初めてエルビスは真剣な顔をして、「何故自分の国が嫌いなんだ?」と聞いてきた。日本人の考え方が好きではないと言うと、「じゃあ自分の事も嫌いなのかい?」と言われ、そうかもと答えると、彼はやれやれといった顔をして、「自分はベニスと言う都市から来た。世界一美しい都市だが、いつか水の下に沈んでしまうかもしれない。それまでに遊びにおいで。」と言ってくれた。その後、日本の北斗の拳の漫画が好きだと言って、日本の女性はきれいだねとか、彼なりに僕を励ましてくれていた様に見えた。この時僕は気付いていた。自分の国は世界一で、生まれた所が大好きだと言うエルビスが、格好良く見えた事。遊び人だと思っていた彼の方が、自分よりはるかに立派で魅力がある様に感じた。この事をきっかけに、僕の考え方は変わって行く。ふてくされていた子供の考えが、消えて行こうとしていた。そうか、僕は故郷や母国への愛を見失っていたのかもしれない。日本人の良さを忘れているのかもしれない。取り戻さなくては世界で通用しないかもしれないなと、「北斗の拳ねぇ」と独り言を呟いていた。その後、食事に出て行ったエルビスを呼びにイタリアのお姉さんが部屋に来たから、少し話をした。エルビスは女好きである事。それでも彼は優しいという事。きれいなお姉さんに「あなたも女の子には優しくしてあげてね。」と言われ、少し照れた。ここでも気付いたのだが、日本人と違って、彼女たちは人の良い所を見ようとする。僕らはすぐ人のダメな所を見つけようとするのに。何かが違う。おそらく自分の考えは間違っている。好きな事、良い事を楽しそうに語る彼らとの出会いによって、僕の中の考えが、少しずつ、本当に少しずつではあるが、小さな島国のものから、世界の基準へと変わろうとしていた。

 

   ♪ 愛をとりもどせ!!  /  クリスタルキング

 

YouはShock 愛で空が落ちてくる   You はShock 俺の胸に落ちてくる

熱い心 クサリでつないでも 今は無駄だよ 邪魔する奴は指先一つでダウンさ

YouはShock 愛で鼓動早くなる YouはShock 俺の鼓動 早くなる

お前求め さまよう心今 熱く燃えてる 全て溶かし無残に飛び散るはずさ

俺との愛を守るため お前は旅立ち 明日を見失った

微笑み忘れた顔など 見たくはないさ 愛をとりもどせ

 

YouはShock 愛で闇を切り裂いて YouはShock 俺の闇を切り裂いて

誰も二人の安らぎ 壊すこと 出来はしないさ 引きつけ合う絆は離れない 二度と

俺との愛を守るため お前は旅立ち 明日を見失った

微笑み忘れた顔など 見たくはないさ 愛をとりもどせ

 

 

 

 

 

 

留学生活その1 出発。

 23歳の時、僕は中国の北京にある”語言文化大学”に留学した。2年間日本の専門学校に通った後、物足りなくて留学した事にしているが、本当は違う。高校卒業後に予備校へ行き、魚の腐った眼をしている様な周りに嫌気が差し、一か月で辞めた僕は、日本の勉強に価値を見出せず、親たちの言う当たり前の人生に疑問を持っていた。このままやりたい事も見付からないのに大学へ行き、普通に就職、結婚とかして、僕は満足するのだろうか。外国にでも行って日本が普通なのか確かめたいと思っていた。なんとなくこれからはアジアの時代と言われていたのもあり、僕は中国アジア貿易コースに進んだ。きっかけは何となくだった。今は、本当にそうして良かったと思っている。そこの専門学校でも非常に素敵な出会いがあったし、その後の留学生活は僕の人生を変えた。23歳の僕は、日本が嫌いだった。自信家でもあった。高校の先生に「何故教師をやっているのですか?」と訪ね、答えられない教師の授業にも出ないとか、テストでクラス一位を何度も取り、こんなの何の価値も無いといきがっていた。繊細だった僕は、尾崎豊ブルーハーツに夢中になり、愚痴を言う大人になりたくなくて、もがいていた。社会に出たくないと抵抗していた。生まれた国の日本の事でさえ、心のどこかでバカにしていた様に思う。世界に挑戦してみようか。いつしかそんな野望と共に、まだ見ぬ世界への憧れを抱いていた。井の中の蛙であると知らなかったから。自分ひとりで色々手続きをし、出発の日。空港で知り合いにあいさつし、僕は意気揚々と中国へと飛び立った。飛行機の中で「スプライト下さい。」と習った中国語で言ったら、聞き取ってもらえてないのに苦笑いし、楽しみだけを抱いて、僕は北京に降り立った。

 空港に着いて、いきなり恐怖が襲って来た。知り合いが誰もいない。日本語も聞こえない。手荷物はどこに出て来るんだ?どうやって大学へ行くんだ?荷物が出て来なかったら終わりじゃないか?軽くパニクっている自信家がいた。必死で頭上のプレートを探し、”広島”と書かれた物を見つけた時、どれだけ安心した事か。何とか手荷物を確保し、トラベラーズチケットをわずかだけ中国元に変えた後、外に出た。自家用タクシー運転手が20人ぐらいいっぺんに僕に向かって来た。焦った僕は中国語で”要らない”とだけ言って、空港脇でちゃんと列で並んでいる正規のタクシーの横に並んだ。煙草を吸うのも忘れて、ちょっと来た事を後悔している自分がいた。もっと言葉を勉強しとけば良かった。とにかく大学へ辿り着こう。時刻は夕方。うっすらと暗くなる日本より広い空が、焦りに拍車をかけて来る。もう簡単には戻れないぞと改めて覚悟をかみしめていた。タクシーに乗り、”北京語言文化大学”と言っているのに、聞き取ってもらえない運転手に地図を見せて、何とか出発。これからの生活を思い、楽しみが段々としぼんでいく音が聞こえた気がした。それでも「広島からわざわざ来たんじゃけぇ、やってやるわい。」と強がりながら、出発前に友達の前で歌った吉田拓郎の歌を心で歌っていた。日本より広い片道3車線のアスファルトの道。景色を楽しむ余裕もないまま、運転手のネームプレートの漢字を見たままの僕を乗せて、シャレード型の赤いタクシーは、時速60キロ位で走り始めた。

 

   ♪ 唇をかみしめて  /  吉田拓郎

 

ええかげんな奴じゃけ ほっといてくれんさい

アンタと一緒に 泣きとうはありません

どこへ行くんネ 何かエエ事あったんネ 住む気になったら 手紙でも出しんさいや

季節もいくつか 訪ねて来たろうが 

時が行くのも ワカラン位に 目まぐるしかったんじゃ

人が好きやけネー 人が好きやけネー 裁くも 裁かんも 空に任したんヨ

人がおるんヨネー そこに人が おるんヨネー

 

何かはワカラン 足りんものがあったけん

生きてみたんも 許される事じゃろう

自分の明日さえ 目に写りもせんけれど おせっかいな奴やと 笑わんといてくれ

理屈で愛など 手にできるもんならば

この身をかけても すべてを捨てても 幸せになってやる

人が泣くんヨネー 人が泣くんヨネー 選ぶも 選ばれんも 風に任したんヨ

人がおるんヨネー そこに人が おるんヨネー

 

心が寒すぎて 旅にも出れなんだ 

アンタは行きんさい 遠くへ行きんさい 何もなかったんじゃけん

人が呼びよるネー 人が呼びよるネー 行くんも とどまるも それぞれの道なんヨ

人が生きとるネー 人がそこで生きとるネー

人がおるんヨネー そこに人が おるんヨネー

神様に挑んだ男。

 コービー・ブライアントが亡くなった。ヘリコプターの墜落による事故死だった。彼のコービー(kobe)という名前は、日本の”神戸”からとっているらしい。僕は中、高とバスケ部だった。僕の時代のスーパースターと言えば、”神様”マイケル・ジョーダン。彼がNBAにデビューした頃、マジック・ジョンソンやラリー・バードといったレジェンドがいたが、ノースカロライナ大からNBAにデビューした時、彼のチームはとても弱かった。マジックやバードのチームが決まって世界一を争っていた。ところがジョーダンはたった一人でその伝説たちに挑んだ。一人で戦っていた。弱小チームのチームメイトなど、いないに等しかった。自分一人だけで63点取ったセルティックス戦では、何度やられても一人で取り返して来る彼を、皆が脅威に感じていた。高校生の試合かという位一人で得点して来る。プレー中にこけたジョーダンを、バードが手を引いて起こしていた時、僕はバードがとても嬉しそうに見えた。自分達に挑んで来る若者を、歓迎しているかの様に見えた。そしてその後、ジョーダンは神様になった。歴史上最高のプレイヤーとして、今も語り継がれている。コービーは19歳でNBAにデビューした。ジョーダンと入れ替わりでスターになった様な記憶がある。プレースタイルも若きジョーダンを彷彿とさせた。典型的な負けず嫌いのコービーは、毎日朝4時から練習するなど、非常に努力家で、バスケットボールを愛していた。僕の記憶に残ったのは、ジョーダン率いる最強ブルズとコービーのレイカーズがプレイオフで当たった時のジョーダンのインタビューだ。試合中、何やら話していた二人。試合はブルズが勝ったが、ジョーダンはいつも道理な感じで、勝利には大して嬉しそうでは無かった。ところが、インタビュアーが、「コービーと何やら話していましたが、何を話していたのですか?」と聞かれると、満面の笑みで「あいつがどうやったら僕のいるブルズに勝てるかと聞いて来たんだ。試合中の終わり前に。だから最後の俺のシュートを止めてみな、とアドバイスしたのさ。」と言っていた。僕にはそれで全てが解った。ジョーダンは、昔の自分を思い出し、やがて自分を超えるであろう若者を見つけて、嬉しかったのだ。一つ覚えておいた方が良い事がある。誰かを目標とする時、その人みたいになりたいと思う者の多くは、その対象を超えられない。目標とする人を超えたい、倒したいと思う者の中にこそ、超えて行く者が存在する。当時のジョーダンに勝てる人など存在しないと誰もが知っていた。NBAプレイヤーでさえ、ジョーダンと写真を撮り、それを自慢していたほどだ。オリンピックで対戦した各国の代表選手もそう。そんな日常で、ジョーダンは退屈だったろうと思う。この中の誰も自分を脅かす者は存在しないと解っていただろう。そんな時にコービーと出会った。19歳の高卒ルーキーが自分を倒すと言っている。ジョーダンは本物のチャンピオンだから、決してそれを笑わないし、喜ぶ。もしあなたが誰かに挑戦した時、相手が笑っていれば、その人に挑む価値がある。怯えている様ならその人は本物ではない。僕はそう思っている。思えばかつてのバードもそうだった。周りが”恐れ多い”、”身の程知らずだ”と言っていたとしても、本物には本物が解るのだ。その瞬間はとてもカッコ良い。二人だけが輝いている瞬間を、僕は何度か見た。歴史とはこうやって繰り返されていく。コービーはその後一試合で81得点を取り、ジョーダンの記録も超えた。背番号が8から24になったのは、ジョーダンを超えると決めていたからだ。だからジョーダンの23より一つ多い。後にジョーダンは「コービーは僕の弟だ。僕は自分以外で、彼ほど努力した男を知らない。」と言っている。コービーは神様に挑み、神様はそれを認めていた。天才ではなく、努力の人。コービーは引退試合でも60点を決め、第4ピリオドで10点差を一人でひっくり返し、チームメイトを抱きしめていた。会場は優勝したかのように盛り上がり、チームメイトは泣いていた。「いいか、負けて良い試合なんてないんだ。闘志を忘れるなよ。」と言っているかの様な男を、誰もが尊敬の念で見守っていた。コービー、お疲れ様。あなたほど好きな事に対して、自分の人生をかけて出し尽くした人間を僕は知らない。天国では君を脅かす者など誰もいないでしょう。同じチーム内で唯一、一人で二つの永久欠番”8”と”24”を持つ男。神様も君を見たくなったのかもしれないね。どうか安らかに。一緒に天国へ行った娘と、バスケットを楽しんでね。神様にでも挑んでよいのだと教えてくれたあなたを、忘れません。ではまた。

ハーメルン。

 1995年3月20日に起きた戦後最悪のテロ事件。地下鉄サリン事件。当時の僕らには正直何が起きたのかすぐには理解できないほどの衝撃だった。TVでは毎日いやになるくらいオウム真理教の話題が取り上げられ、正直地方の自分達はうんざりしていた。子供っぽいというのがあの教団に対するイメージだ。高学歴のいわゆるエリートと呼ばれる男達が危険な薬品を作り内部では人が死んでいるだの殺人予告が行われているだの、なんか漫画の中の世界の様に感じていたわけだ。ところが、現実に人が死んだ。無差別のテロ事件。同じ日本人が東京の地下鉄でサリンをまく。これは現実なのかという映像がTVでは連日流された。罪も無く殺された多くの人、巻き込まれた家族。一説には東京の制圧からの国家転覆を企んでいたとされ、教団の背後に北朝鮮やロシアがいた事で、恐怖は増した。北朝鮮側の海には多くの警察官が派遣されていたらしい事も後で知った。北朝鮮軍が攻め込んで来るとの情報があったためだという。これは現実なのだ。平和とは簡単に崩れる。一人の人間のエゴによってでも起こりうる悪夢を、日本国民は認識した。彼らに同情の余地はないが、エリート達は、ある程度自分達がしようとしている事の危険度は知っていたと思う。それでもなぜ、オウムだったのか。力による恐怖もあっただろう。やめると言えば、殺されかねない教団だったことは内部にいて知っていただろうし、実際色んな事件で手を下した事もあっただろう。彼らは純粋で、研究を好きなだけやらせてくれる教団の魅力から、現実の判断がつかなくなった様に見えた。研究者にとって研究とは命。日本の社会が認めてくれなくとも教団なら認めてくれる。自分の得意な事、自分の存在を最大限生かしてくれる場所に、彼らは心を奪われていった。もちろん洗脳もあっただろうが、エリート軍団の多くは事件の後、自らの死刑を望んでいたあたり、自頭は良かったのだろうし、取り返しのつかない事に自分が加担した事を理解していたのだろう。彼らの能力だけ見ると、もったいないという声すら挙がっていた。僕が気になったのは解放された信者が、テレビ局のインタビューで、”私は洗脳されて間違った教えを信じ込まされてかけがえのない人生の時間を奪われた。時間を返して欲しい”と言っていたのを見た時に、単に教団のせいというわけではなく、自分を持たないこの様な人が多く集まってしまった事が大きな不幸を招いたのだなと思った。信じる事が悪いのではなく、信じたものが悪かっただけなのに、自分がだまされていたみたいな物の言いようは情けなさすぎないか。相手が何であれこういう人は、結果が悪ければこれからも相手にその非を求めて行くのだろうなと思う。自分が信じたのだ。自分が救われると思ったのだ。それは間違いとかじゃない。教団が間違っていたのが解ったなら、それを信じてしまう自分に問題があることを知らないと、何も解決していないし、同じ様な過ちを繰り返す事にはならないだろうか。当時の僕はそれが気がかりだった。そして道を踏み外したエリート達の顔を見ていると、頭の中である曲が流れた。それを聴きながら、全ての失われた大切なものへの鎮魂歌になる様にと願った事を思い出しています。誰にも得意なものはある。使い方次第なのだ。何に情熱を向けるかなのだ。多くの人が幸せになれるものの方が正解な気はしている。ではまた。

 

  ♪ ハーメルン  /         LÄ-PPISCH 

 

となり街から 不思議な楽団が またとなりの街へ

僕の部屋の窓の外を ゆっくり通り過ぎる

いろんな人に会って来たんだね いろんな街を歩いて来たんだろう?

この先も色々と行くんだろう?

連れてってよ 連れてってよ 連れてってよ

笛なら吹けるよ 太鼓も叩くよ ねえあの歌を 教えてよ

ダンスは下手だよ でも懸命に踊るよ ねえそのステップを 教えてよ

となり街から 不思議な楽団が またとなりの街へ

 

砂嵐にも 負けないマント着て 僕は家を出て行く

街の子供たちと 彼等の後を 足早に追いかけてみた

ずっと笑われて来たんだね 石を投げられた事もあるんだろう?

泣き言なんか決して言わないから

ついて行くよ ついて行くよ ついて行くよ

笛なら吹けるよ 太鼓も叩くよ ねえあの歌を 教えてよ

ダンスは下手だよ でも懸命に踊るよ ねえそのステップを 教えてよ

月が昇れば 丘に登ろう ねえあの歌を 歌ってよ

 

こうして 僕の街の子供たちは 一人もいなくなったのさ・・・