釈迦に説法

幸せについて考えてみる。

留学生活その1 出発。

 23歳の時、僕は中国の北京にある”語言文化大学”に留学した。2年間日本の専門学校に通った後、物足りなくて留学した事にしているが、本当は違う。高校卒業後に予備校へ行き、魚の腐った眼をしている様な周りに嫌気が差し、一か月で辞めた僕は、日本の勉強に価値を見出せず、親たちの言う当たり前の人生に疑問を持っていた。このままやりたい事も見付からないのに大学へ行き、普通に就職、結婚とかして、僕は満足するのだろうか。外国にでも行って日本が普通なのか確かめたいと思っていた。なんとなくこれからはアジアの時代と言われていたのもあり、僕は中国アジア貿易コースに進んだ。きっかけは何となくだった。今は、本当にそうして良かったと思っている。そこの専門学校でも非常に素敵な出会いがあったし、その後の留学生活は僕の人生を変えた。23歳の僕は、日本が嫌いだった。自信家でもあった。高校の先生に「何故教師をやっているのですか?」と訪ね、答えられない教師の授業にも出ないとか、テストでクラス一位を何度も取り、こんなの何の価値も無いといきがっていた。繊細だった僕は、尾崎豊ブルーハーツに夢中になり、愚痴を言う大人になりたくなくて、もがいていた。社会に出たくないと抵抗していた。生まれた国の日本の事でさえ、心のどこかでバカにしていた様に思う。世界に挑戦してみようか。いつしかそんな野望と共に、まだ見ぬ世界への憧れを抱いていた。井の中の蛙であると知らなかったから。自分ひとりで色々手続きをし、出発の日。空港で知り合いにあいさつし、僕は意気揚々と中国へと飛び立った。飛行機の中で「スプライト下さい。」と習った中国語で言ったら、聞き取ってもらえてないのに苦笑いし、楽しみだけを抱いて、僕は北京に降り立った。

 空港に着いて、いきなり恐怖が襲って来た。知り合いが誰もいない。日本語も聞こえない。手荷物はどこに出て来るんだ?どうやって大学へ行くんだ?荷物が出て来なかったら終わりじゃないか?軽くパニクっている自信家がいた。必死で頭上のプレートを探し、”広島”と書かれた物を見つけた時、どれだけ安心した事か。何とか手荷物を確保し、トラベラーズチケットをわずかだけ中国元に変えた後、外に出た。自家用タクシー運転手が20人ぐらいいっぺんに僕に向かって来た。焦った僕は中国語で”要らない”とだけ言って、空港脇でちゃんと列で並んでいる正規のタクシーの横に並んだ。煙草を吸うのも忘れて、ちょっと来た事を後悔している自分がいた。もっと言葉を勉強しとけば良かった。とにかく大学へ辿り着こう。時刻は夕方。うっすらと暗くなる日本より広い空が、焦りに拍車をかけて来る。もう簡単には戻れないぞと改めて覚悟をかみしめていた。タクシーに乗り、”北京語言文化大学”と言っているのに、聞き取ってもらえない運転手に地図を見せて、何とか出発。これからの生活を思い、楽しみが段々としぼんでいく音が聞こえた気がした。それでも「広島からわざわざ来たんじゃけぇ、やってやるわい。」と強がりながら、出発前に友達の前で歌った吉田拓郎の歌を心で歌っていた。日本より広い片道3車線のアスファルトの道。景色を楽しむ余裕もないまま、運転手のネームプレートの漢字を見たままの僕を乗せて、シャレード型の赤いタクシーは、時速60キロ位で走り始めた。

 

   ♪ 唇をかみしめて  /  吉田拓郎

 

ええかげんな奴じゃけ ほっといてくれんさい

アンタと一緒に 泣きとうはありません

どこへ行くんネ 何かエエ事あったんネ 住む気になったら 手紙でも出しんさいや

季節もいくつか 訪ねて来たろうが 

時が行くのも ワカラン位に 目まぐるしかったんじゃ

人が好きやけネー 人が好きやけネー 裁くも 裁かんも 空に任したんヨ

人がおるんヨネー そこに人が おるんヨネー

 

何かはワカラン 足りんものがあったけん

生きてみたんも 許される事じゃろう

自分の明日さえ 目に写りもせんけれど おせっかいな奴やと 笑わんといてくれ

理屈で愛など 手にできるもんならば

この身をかけても すべてを捨てても 幸せになってやる

人が泣くんヨネー 人が泣くんヨネー 選ぶも 選ばれんも 風に任したんヨ

人がおるんヨネー そこに人が おるんヨネー

 

心が寒すぎて 旅にも出れなんだ 

アンタは行きんさい 遠くへ行きんさい 何もなかったんじゃけん

人が呼びよるネー 人が呼びよるネー 行くんも とどまるも それぞれの道なんヨ

人が生きとるネー 人がそこで生きとるネー

人がおるんヨネー そこに人が おるんヨネー