釈迦に説法

幸せについて考えてみる。

道の先に立つ男。

 2000年のシドニーオリンピック男子柔道は、非常に実りのある学びの場であった。野村選手、瀧本選手が金メダルを取り、日本柔道の強さをまざまざと世界に見せつけていた。100キロ級の井上康生選手。亡くなった母の名前を黒帯の裏に縫い付けて、決勝に進んだ。”しっかり前を向いて堂々と歩きなさい”。過去の大会でうつむき加減で入場する康生選手に、よく言っていたそうだ。母親の為にと強い決意で入場する井上選手は、しっかり前を向いて、堂々としていた。そして美しい一本勝ちでの優勝。迷いの無い彼の柔道に、敵は居なかった。表彰台で母の遺影を掲げた彼の姿に感動した人は多かったろう。僕もその一人だ。”日本柔道強いなぁ”と呑気に見ていた僕。迷いの無い道を行く男の姿に見とれていた。しかし、100キロ超級で更なる感動を味わうなんて、この時はまだ思いもしなかった。

 迎えた100キロ超級男子決勝。恐ろしいまでの強さを誇る篠原信一選手が登場した。全日本選手権3連覇。前出の井上選手がそれを阻むまで、誰にも負けないと思われていた。事実、判定で4連覇を阻止した井上選手も、その一回以外は篠原選手に負けており、一番強い柔道選手は?と聞かれると、迷わず篠原の名を挙げるほどだった。開始一分ほどで内またすかしで一本勝ち。そうなるはずだったが、結果は違った。副審二人は篠原選手の一本勝ちを宣告したが、主審の判定は、相手のドゥイエ選手の有効。残酷な結果になったこの試合は、歴史に残る誤審と呼ばれる事になる。僕は呆然としていた。山下コーチが審判団に猛烈な抗議をしていたのを覚えている。決して泣かない男と言われていた篠原が、銀メダルを胸に泣いていた。止まらない汗と涙を懸命に大きな手の平でぬぐっていた。金メダルのドゥイエ選手が上から気にして見ていたほどだ。ドゥイエ選手も自分が負けていた事は解っていた様に思う。悔しさのあまり、結果を伝えるアナウンサーが涙ぐんでいたほどだ。僕もこんな事が世界一を決める舞台で起こるのかと、落胆していた。篠原選手のインタビューが流れて来た。さぞかし無念であったろうと同情の思いで聞いていた僕。汗まみれの武骨な男の口から出て来た言葉はこうだ。

   ー 自分が弱かったから、負けたんです。 -

 ・・・しばらく動けないほどの感動だった。僕の思いを篠原選手は内股で投げた。そんな感覚だった。生きていると、人は何度も悔しい思いをする。あの時ああしなければ、もっと勇気があればと自分を責める。特に自分に責任が感じられない様な不条理な場面では尚更だ。なんで自分がこんな思いをとか、あの人のせいなのに、とか。やり切れない悔しさ、恨みの様なもの。それら全てを、篠原選手は代表して投げてくれた。その鋭く磨かれた技のキレの美しさに、投げられて一本負けした僕らの心からは、感じた事の無い感情が溢れたのである。その潔さによってどれくらいの思いが成仏した事か。自分が同じ日本人である事を、どれだけ誇らしく思えた事か。強い男になる道を、目指した男が辿り着いた場所。まさに男の中の男である。日本人の、日本柔道界の誇りである。それを世界の大舞台で、世界中の人に向けて示して見せた。心の底から尊敬し、こんな男になりたいと願う見本の様な男の姿が、そこにはあった。ー 余談ではあるが、その時の世界の新聞にはこう書かれていた。

「篠原は金メダルを奪われた。ドゥイエは金メダルを受け取るべきではなかった。もしもあの時金メダルを辞退していたら、ドゥイエの名は長く柔道界の歴史に賛辞と共に残っただろう。しかし、柔道の神は、あの悲惨な結果の試合後に、自らドゥイエに握手の手を差し伸べ、自分が弱いと言ってのけ、涙をこらえて正面を向いて立っていた大男の名を、残す事に決めた様だ。なぜ世界中で柔の道を歩もうとする外国人がいるのか?その道の最も先に立つ者が、堂々と世界に示して見せた。シンイチ・シノハラ。柔の道を極めた男の名前である。」

 小さい子供も大人になってからでも、強い男、強い人間を目指す者は覚えておいた方が良い。強いとはどういう事なのか。自分は何と闘っているのか。何故闘っているのか。決して結果が全てでは無いという事。結果は結果に過ぎない。自分の力を使い切り、自分の道を行けば良い。誰もが憧れて挑んでいく厳しい道の先には、こんな男たちが立っているのだと教えてくれた大会だった。

  ”生きる上で最も偉大な栄光は、決して転ばない事にあるのではない。

  転ぶ度に、起き上がり続けることにある。” - ネルソン・マンデラ ー

 

おめでとう康生選手。ありがとう篠原さん。ではまた。