釈迦に説法

幸せについて考えてみる。

広島東洋カープ。

 僕は広島で生まれた。多分に漏れずカープファンである。血が赤いのはカープの血が流れているからだと信じていた頃があるほどだ。昭和20年、広島は一度消えてしまった。70年は草木も生えぬ焼け野原で生きて来た広島県人。復興のシンボルとして25年にカープ球団が誕生したが、いきなり最下位で、親会社のいない孤児の様な球団は、消えてしまう運命にあった。しかし広島市民による有名な樽募金によって、かろうじて存続していく事が出来た。市民はカープに自分達を重ね合わせていたのだろう。復興の灯を消してなるものかと行動したのだろう。同じプロ野球の他チームは、哀れに感じていたかもしれない。カープの始まりはそんな想いに包まれていた。それから24年、勝ち越し2回、Aクラスわずか1回。負けるのが当たり前になっていた。太陽が西から昇っても、カープが優勝する事は無いと揶揄された。そして、3年連続最下位の後の年、昭和50年にカープは変わる。皮肉にも変革をもたらしたのは、戦勝国アメリカから来た初めての外国人監督だった。ジョー・ルーツ。彼は選手たちの精神面の弱さに不満を持っていた。勝利への執念、闘う闘志の象徴として、帽子は赤色に変わった。”なぜこのグラウンドに来て練習しているのか”と、毎日ミーティングで問い続けた。全力疾走をしないなどの緩慢なプレーをすれば、容赦なく罰金を課した。私生活についても厳しかった。ある時は、選手ではなく、指導するコーチ陣が門限を破り、そのコーチ陣にも、”何をやっている。選手達は闘っているんだぞ。お前達も同じだろう。”と怒鳴り、横で素振りの練習をしていた選手達は、本気の外国人監督への信頼を高めて行ったという。ルーツはこのシーズン中の試合中、自分の抗議を球団フロントに止められた事に憤慨し、途中で退団の道を選ぶ。その帰国の前でさえ、”君達は優勝できる。11月の優勝祝勝会に呼んでくれ”と言い残した。

 そして昭和50年、広島東洋カープは初優勝した。優勝パレードには30万人の広島県民が沿道に駆けつけた。当時の全広島県民は85万人。11月には、ルーツも約束通り来日している。機動力野球、諦めない逆転のカープ、チームは家族。今に通じるスタイルはこの年から始まった。この時何故、カープは優勝できたのか?意識改革がその全てだ。自分の成績の為にプレーしていた選手達は、チームの為という気持ちを忘れていた。負けるのは当たり前だと思っていた。その意識を変えたのは確かにルーツだった。しかし、ルーツの後を引き継いだ古葉竹識監督は、更にもうひとつの大切な事実を突き付けられる事になる。優勝凱旋パレードの最中、優勝した自分達には当然、”おめでとう”という言葉が投げかけられると思っていたそうだ。しかしそんな監督の耳に届いて来た言葉は、”ありがとう”だった。ハッとして沿道に目を向けると、応援し続けたカープの今日の優勝を見る事は叶わず、亡くなっていった人達の遺影を掲げる多くのファンの姿がそこにあった。”よー頑張ったねえ。ありがとうー。お祖父ちゃんも喜んどるよー”。一生懸命に自分達に遺影を見せてくれていたそうだ。古葉さんの涙は、気付きの涙だった。チームの為と思う事以前に、この人達の想いに応える為にやって来たのを改めて思い出したという。負けて当たり前。そう言われ長い間うつ向いて野球をしている選手たちを見ても、ずっと応援してくれた。広島という何も無かった街は、ずっとカープを愛してくれていた。弱いカープを、自分の子供の様に見てくれていた。自分達は、ひとつ恩返しが出来たのだ。それが何よりも誇らしく、監督は泣いていたそうだ。それが広島東洋カープなのだ。広島の街とカープは、家族なのだ。

 僕は広島カープが好きです。広島で生まれたからだけではなく、魂が、歴史が好きなのです。あれからずっと変わらない、カープへの想い。FAで選手を獲得した事の無い球団。貧乏球団。狭い球場を笑われ、手塩にかけて育てた選手を、何も言わず放出する。帰って来たいと言えば、いつでも笑って受け入れてやる。カープ球団は、選手の引退後の生活をいつも真剣に考え、用意している。外国人に対しても家族として接する。これからもきっとそうだろう。球界一の目を持つスカウト陣が、人間性を重視して連れて来るドラフト1位ではない選手達が、育って行くだろう。それを見ていたいのだ。

 勝ち負けが全てでは無いと思う。人生もそうかもしれない。あなたが夢に向かう時、誰かの想いを背負って行くなら、その支えは失くなる事はない。力一杯自分を信じてやるといい。家族の絆、仲間の絆。人は、一人ではないからこそ煩わしい事もあるが、一人では無いからこそ、闘って行けるのだ。みんな頑張れ。高い所に昇って行く鯉の様に。愛される者の強さを見せ続けてくれ。

 いつか天国で、遺影の中で笑っていた人達に教えてあげよう。カープは強くなったよ。カープに入りたいという子供もいる。沢山ドラマがあった。弱気と闘い続けた炎のストッパーがいた。ケガで惜しまれた天才がいた。メジャーで成功し、それを捨ててまでカープに帰って来た男がいた。ブーイングで退団し、帰って来た不器用な男が拍手で迎えられた事もあった。ドミニカにアカデミーもできたよ。誰よりもジャイアンツを愛した男が、赤いヘルメットをかぶっていたりする。カープが負ければ広島の大人達は機嫌が悪い。今の4番はバットを抱いて眠る野球小僧だ。3連覇もしたよ。無双の強さだった。今もカープは広島で愛され、全国にもたくさんファンがいるんだ。球場は満員で、敵のホームも赤に染まる事がある。信じられないよね。でもきっとそう言うと、あの人達はこう言うだろう。”我々の愛したカープは、元気にやってるみたいだね。それだけで嬉しいよ”、と。♪カープカープカープ広島、広島カープ。 ではまた。