釈迦に説法

幸せについて考えてみる。

仏のランク。

 仏教における神様は寺にもたくさんいますが、何がどう違うのか解りにくいですね。みんな漢字の名前だし、ありがたそうだし。実は仏様というものにもランクがあります。覚えておくと、仏像を見た時の感情が変わって来て楽しかったので、簡単に紹介します。僕は学者でもお坊さんでもありませんが、誰かを理解しようとする時、その人の事を知れば知るほど感情移入できるのは当然ですから、僕なりに解説します。大まかに四つ覚えておきましょう。一番上は、”如来”(にょらい)です。阿弥陀如来やもちろん我らが釈迦如来もそうです。悟りを開き、宇宙の心理を知った人。残念ながらこの世にはいません。この世に未練は無く、極楽浄土に行っちゃいました。悟りとはそういう事なのだそうです。自分勝手でしょ?他人の事は知りません、失礼しますって感じです。でもこれこそが人の本当にすべき事なのだと思います。他人をいくら救ってあげたくてもその他人は自分が救われたと思わなければ救われない。他人では実際どうしようもない事なんです。自分に解ることは自分の事だけ。だから自分の事を一生懸命やる。自分が他人に影響する事を知れば、どうやって人に迷惑をかけないようにする?みんなに合わせる事を釈迦はしない。ありのままの自分で、どうやってみんなとうまくやっていくか、それを一生懸命考える。同じ様で、違う。釈迦のやり方の方が難しい。とにかく如来というのは、一見わがままで自分勝手に見えますが、難しいとされている方に挑戦して行きます。釈迦は元々王様の子供ですからね。それから何も持たずに修行に行くって、普通はしない。荒行を何年も続けたのに、”こんなしんどいだけのもんは違うわ”って急にやめたりとか。すごく友達になれそうじゃない?”私は神だ”って多くの人連れて歩く神様より、僕は好きになっただけ。”わがまま”とは、”私のまま”ってこと。難しいよね、実際。本音って言えない時もあるよね。だからこそ挑戦する。それが真理。仏教を勉強しようとか思わなくて良い。世界四大宗教の中で、仏教にだけ聖典が無いのも面白い。答えは自分で見付けんかいって事なのだろう。いつの世も変わらない答えなどありもしないのに、本で残せるかって事なのでしょう。未来の人間にも興味が無かっただけかもだけどね。あの人、自分勝手だから(笑)。ただ、人生について悩んだり、自分の事で辛くなったら、ちょっとだけお釈迦さんを思い出してみると良い。僕は釈迦を友達だと考えるようになってから、ずいぶん楽になった。自分らしいという事を、愛せるようになった。”嫌いだ”と人に言われても、”そうか、僕はあなたが好きだけど”、と言えるようになった。人は人、自分は自分。それで何も間違ってはいない。釈迦はきっとそう言うだろう。ちなみに如来は欲が無いから、着ている服もとても質素で、表情もボーっとしている。親や先生に余裕で怒られるレベルだ。自分の子供がボーっとしていたら、怒るのではなくて”この子は如来なのでは?”ってドキドキすれば良い(笑)。仏像を見ると、表面からでもランクが解って面白いよ。次のランクは”菩薩”。観音菩薩や、弥勒菩薩。道端に立っているお地蔵さんも、実は地蔵菩薩です。偉いんだよ?ああ見えて(笑)。菩薩はこの世の中で最高の仏。ただ一つの欲の為に、悟りを開けずこの世の中に居る。その欲とは、”人を救ってあげたい”という欲。ありがたいでしょ?欲があるから着ている服もおしゃれ。顔も笑っている。お地蔵さんは子供の為に立っている。子供が親より先に死ぬと、親不孝の罪になり、賽の河原でずっと石を積み上げなくてはならない。いびつな石は積み上げるのが難しく、とても辛い作業だ。だからお地蔵さんが代わってくれるのだ。子供が極楽に行ける様に。体は石でできているし、子供の前掛けをしているでしょう?お地蔵さんを見かけたら、そこで子供が亡くなったのだと解るから、そっと手を合わせて欲しい。”お地蔵さん、代わってくれてありがとう”って、心で言って欲しい。考えた事無かったでしょ?そんな事。これからの幸せになるための旅のお供に知ってて欲しい。仏様は人間にとっては最高にありがたいという事を。だから寺にも行こう。仏様に会うために。救われに行くんじゃないよ?ありがとうを言いに行くだけ。ちなみに、仏が救う順番って知ってる?どういう順番で自分に気付いてくれるのか。例えば、あなたの目の前で、あなたの母親と、あなたをいじめる人がおぼれそうになっていたとする。あなたはどっちを先に助けますか?当然母親の方だよね?でも仏様は違うんだ。仏様は絶対に人を差別しない。ルールがある。それは、”自分に近い方”。もし母親が自分より遠くに居たら、先にいじめた方を助けるという事。人はよく言うよね、”自分だけついてない”とか、”救われない”、とか。それは違うよ。まだ自分の番じゃないだけ。自分より先に、近い人達が救われているだけ。だからそういう時は、”そうか。辛いのは自分だけではないのだな。仏様が見ていないわけではないのだな”、と思ってくれて良い。助けたくてこの世に残った仏様が、見捨てるわけがないだろう?恨むなんて筋違いだ。あなたが必死で幸せになろうともがいているのを、ちゃんと見てくれていますよ。・・・なんか宗教チックになって来た(笑)。大丈夫。勧誘はしない(笑)。知識は荷物にならないし、死ぬ時まで持って行けるから、たくさんの事を知って欲しい。だからブログを書いているんだし。

 続いて次のランクは”明王”。不動明王が有名だね。叱りたくて怒った顔をしている。欲も多いから体に色が着いてたりもする。大体インドの方から来ている事が多い。厳しい先生のイメージ。最後のランクは”天”。弁財天や毘沙門天がそうですね。四天王なんて名がつくのもこれ。この人達は、国や上のランクの仏様を守っていたりもする。お金の事や欲に関する事が多くて、それ故に人間に最も近い存在です。

 こんな事知って何になるの?それは解らない。ただ、多くの仏と呼ばれるものが自分たちの近くに居て、自分を見てくれていると思うと、ちょっと嬉しくならないか?と思うだけ。仏像を見るのが楽しくなるし。世界の宗教勉強しても、やっぱり仏教なんだよなぁ、しっくりくるのは。日本人である事も大いに関係してるだろう。ただ僕らの多くはそれを知ろうとしない。だから信じる拠り所が希薄でもある。狭い社会に正義を求め、理屈で自分を正当化する。なかなか謙虚でいられない。生かされている事を生きていると勘違いし、感謝もできない。キリスト教徒はどんな悪党であれ、子供の頃に洗礼を受けていれば、教会の神父さんは殺せないらしい。そこに偉大な神の姿を感じるからだそうだ。本能に染み込んでいるからだそうだ。そういうのって大事だよね?日本人は優秀な民族だと心から思っている。外国人の多くもそう言ってくれていた。ただ僕はこういう人間なんだ、これを信じているんだって所が弱いとも言われていた。そうだよなぁって思う。”両親は大した事ないけど、俺は凄い。”とか言ってる人の側で生きたいかい?”僕が間違ってた、ごめんなさい”とか、”助けてくれてありがとう”って言える人達の側で、生きていたいと思うけどな。みんなはどうだろうか?信じるものを友とし、自分らしく悟りを開いて行ける事を、心から願っています。ではまた。